
みんな気づいていたと思うんですが『ビッグワンガム』は「ガム」がおまけだったんですね。ガムが目あててビッグワンガムを買っていたチビッ子がいたとしたら、たぶん、その人にとって世間は世知辛くてやっていられたもんではないと思います。動物園ってタイトルに入ってるのに猫しか出てこないテレビ番組もあるし。世の中、そんなものでございます。今回の内容もそんな感じですかね。
かつて一度だけ「吾輩は鉄道史研究家である」と口にしたことがあります。それはまたお高く出たもんだ。隠密趣味行動をとっているようなヤツが、逆に振りすぎたような感じがします。言い過ぎ。研究なんかしてないし。たいがいにしろ。
自分の口からそんなトンデモ発言が飛び出したのは、35年近く前の凍てつく2月、ロシア連邦サハリン州ユジノサハリンスク市内(旧日本国 樺太 豊原市内)の古びたビルの一室でのこと。
局面を打開するための最善手だと思って咄嗟に出た、いわゆる「口から出任せ」ですね。「自分は鉄道マニアであります」などとふやけたことを言おうものならば「ここはお花畑じゃねエ。おとなしく日本へ帰れ、クソ青二才が!」と引導渡されて、目的の列車に乗ることができなかったと思います。物は言いよう。言葉を向けた相手は、僕が列車に乗ることができるかどうかの鍵を握る人物でした。
ロシアを旅するとき、切符は事前に手渡されません。その都度、現地で受け取らないといけない。事前にロシア国内のホテルが確定していないと観光ビザも取得できない。ある意味、その融通の利かなさが旅先として考えたときに魅力的ですらあります。おもてなしの心とか一切なくて「別に来なくていいんだぜ」と言っているようで、そうであればなおさらのこと「だったら行ってやるぜ」と思ってしまう。
当時のことを思い出してみます。
モスクワから乗った列車での、風呂にも入れない5泊6日に及ぶ車中連泊を終え、ようやく着いた日本海も近い街ハバロフスク。そこで一泊ののちユジノサハリンスク行きの怪しいプロペラ機に乗ったんですが、いつまで経っても着陸する気配がない。「どうなってんだこれ」と、隣に座っていた見知らぬ毛むくじゃらのオヤジに聞いたら「ハバロフスクに戻ってるんだべ」と。天候不良、そういうこと。
それヤバいじゃん。深夜に迫る頃、ハバロフスクの街に放り出されたところで、泊るところがない。事前にホテルの手配が完了していないとビザ発給してくれないほどだから、いざとなった時には外国人が飛び込みで泊まれるホテルなんかあるのかどうかわからないという鬼畜システム。香ばしすぎる。
勘弁してくれよ、という僕の胸の内を察したのか、そばに座っていたサハリンへ帰るところと思われる朝鮮系ロシア人のオッサン軍団のひとりが声をかけてくれました。ハングル文字が書かれた紙袋を持っている。「どうせ泊るところないんだべ?」と言うので「察しの通りでございます」と答える。すると「俺らと一緒に泊まればいいべや」と、ありがたい言葉。ただし、一晩、ロシア人のふりをしろと。
夜も更けたハバロフスクに戻り、現地人仕様の、ホテルというより宿泊所という表現がぴったりな建物に入り込むことができました。建物に入る前に「入ったら朝まで口を開くな。ホテルの中ではお前は俺たちの親族だ。日本人だとバレたらあとはどうなるか知らん」と言われました。しかし、身なりからしてわかりそうなものなんですよ。
その人たちには日本銀行券千円券を3・4枚ほど渡していました。ひょっとすると、その中から幾らかをホテルのスタッフに「袖の下」してたのかもしれませんね。だって、ふつう、バレるわな。
そんなちょっとした余談ネタをくっつけてたどり着いたサハリン。北海道宗谷岬からサハリンは43キロ、東京駅から八王子とか千葉駅くらいの距離しかない。マラソンやる距離ぐらいしか離れていませんが、僕は1か月かけてやってきました。日本は目の前、そしてここはかつて日本だったところ。
僕はその日の夜、ユジノサハリンスク(豊原)発ノグリキ行きの夜行列車でポロナイスク(敷香)へ向かう予定でした。その鉄道切符をユジノサハリンスクで受け取らなければなりませんでした。
僕に切符を渡してくれるはずの現地旅行会社の人は、僕に切符を渡しませんでした。ヨーロッパ系の、透き通るような肌のきれいな娘さん。ロシアではごく普通の、毛がふわふわの帽子をかぶり、なんだかメーテルみたいな感じ。その旅行会社の人は僕に切符を差し出す代わりに、こう言いました。「今から、話をしてもらいたい人のところへ案内しますから、ついて来てください」と。
異星で怪しい罠に嵌まる一歩手前の鉄郎かよ。(たいがいメーテルに助けられるヤツ)
連れていかれたのは、日本で言うオフィスビル。案内されたのは、そこに入居する小さな事務所。そこには、僕がこれから話をしなければならない相手と思われるロマンスグレーの男性がひとりだけ、居ました。空間の雰囲気は商社の現地出張所の類いか個人事業主の執務場所といった感じで、殺風景そのもの。
「あなたですか。ポロナイスクへ行きたいと言っている方は」男性は日本語で、そう言いました。日本語なのは、その男性が日本人だったから。ちょっとめんどくさそうで、ほんのちょっとだけ上からの目線。久しぶりに目の当たりにする日本人でした。
「私はね、この人から、あなたをポロナイスクに行かないように説得してくれと、頼まれています」男性はメーテルみたいな娘さんをチラ見してそう告げたあと、さらに付け加えました。「この人に説得を頼まれなくても、私自身もそう思います」
根底に何があるのかはすぐに理解できました。サハリンはロシアでも物騒な土地に分類されると聞いていたし、物騒とはちょっと違うけれども、その日、ユジノサハリンスク駅で写真を撮ろうとして襟首掴まれたばかり。ロシア本土とはちょっと違う雰囲気を感じていました。
駅に行くと日本から譲渡されたキハ58が、秋田で走っていたときとまったく同じ、そのままの姿で発車時刻を待っていました。標準軌、広軌と大陸仕様の大ぶりな車両にすっかり目が慣れていました。複線のシベリア鉄道では並んで走る1,520mm幅の線路をずっと目で追っていました。目がそうなっている。サハリンの鉄道はJR在来線と同じ狭軌。なぜそうなっているのか。僕がサハリンへ行きたかった理由そのものです。サハリンの北緯50度以南の線路は、かつて日本が敷設したから。久しぶりに見る1,067mmの線路はもうナローゲージにしか見えない。その上に乗っかっているキハ58が空きっ腹に沁みないハズがない。愛おしくて仕方がない。駅には改札どころかホームもないので、簡単に近付ける。一応警戒はしていたのですが、ちょっと注意が足りなかった。コンタックスのレンジファインダーを取り出して撮影しようとしたら、どこからともなくオヤジが飛び出してきた。剣幕あげて「撮るんじゃねエ!」と。
ソ連時代から鉄道施設は軍事施設同様に扱われてきた国。オヤジの剣幕もわからなくもない。しかし、シベリア鉄道でもしこたま写真撮ってきたのに、何もなかった。むしろ、各車両についているオバサン車掌には良くしてもらいました。こっちの感覚が緩んでいたこともあるだろうけど、ここはモスクワから遠く離れた土地だし、古い感覚が残っている部分もあるのかもしれない。それとも、国境地帯ならではの緊張というヤツだろうか。
キハ58を軍事的「秘」だと言われたところで、こいつは「THE 日本国鉄車両」の中でも超ド級の代表格。日本では諸元も知り尽くされている。元は自分の国を走っていた車両を撮っちゃダメだとは変な気分になるのですが、あのオヤジは軍事的にどうということではなくて、単に日本のお古を使っているお国事情が写る画を外国人に撮られたくなかっただけなのかもしれません。ユジノサハリンスク駅の構内には、キハ55をベースにした富士重工製のD2系気動車や日本の鉄道省仕様の古い客車(いわゆる国鉄旧型客車)の姿があって、フォトジェニックな光景に溢れていましたが、こんなオヤジがいるので、思いに浸る時間は打ち砕かれてしまいました。

とにかく、日本人の単独旅行者には1日でいろんなことが起こりそうな感じはしていたので、男性の説得の理由はすぐにわかりました。要は、ヤバいったりゃありゃしねーから、ポロナイスクに行くのは諦めろ、ということ。
「ポロナイスクは日本人どころか、他の外国人すら行かないところです。どういう目的を持っているのですか?」
インターネットなどない時代です。当時、日本で入手できるポロナイスクに関する情報は、そこでは日本統治時代の王子製紙の工場がそのままに残っている、という程度のものでしかなかった。だから、僕は「それを見に行く」とおとなしめに答えました。
「確かに今も残っているけど、危険な思いをしてまで見る価値はないと思いますよ。全く割に合わない」
僕の回答の仕方がさらに拍車をかけてしまったのかもしれませんが、男性は僕がただの、ちょっと人と違うスリリングな観光がしたいだけの若造だと捉えていたようです。僕が日本人というのが、さらに良くない。サハリンには、かつて日本が関連する事情で朝鮮半島から移ってきた本人やその子孫がロシア人として多く暮らしています。終戦時、日本人は樺太から脱出しましたが、朝鮮から来た人たちはここに残されてしまった。日本人に対する感情がどうなっているのかは、良く考えないといけない。ハバロフスクの宿泊所で僕をロシア人に仕立て上げたような人たちばかりではないと考えないといけない。ユジノサハリンスク駅周辺は特に治安が良くないと聞いていました。理由は「朝鮮系ロシア人の若者の溜まり場になっているから」というものでした。それが本当であるならば、サハリンにおいてスラブ系ロシア人と朝鮮系ロシア人ではコミュニティの分断があるということを意味していて、日本人に対する感情を一概に捉えてはいけないことを示しています。ただし、それは僕が読んだ注意喚起の記述がそうなっていただけであって、僕は全てを鵜呑みにはしていません。
「観光目当てで行く価値はない」「危ないだけで割に合わない」「よくないことが起こるとしか思えない」とネガティブ要素を並べて、僕を説得しようとする。確かに、僕の身を案じて「やめろ」と言ってくれるのはありがたいこと。そこを無理筋な主張で突っぱねるつもりはありませんでした。サンダルで富士山に登ろうとしたら止められるのは当たり前のこと。だけど、観光風情でナメて行くもんじゃない、と言われるのであれば、そこは違うということを伝えないと後悔する。それでダメなら、従うしかない。相手は現地のことを身をもって知っている人たちなのだから。
僕は2,3歳の頃、母親が入院していたために「じいちゃん、ばあちゃん」の家に預けられていました。そこでは毎日、貨物列車が通る時間になるとじいちゃんが僕を自転車の前カゴに突っ込んで、近くの踏切まで連れていってくれていたそうです。
指宿枕崎線二月田駅近くの踏切。
目の前を通り過ぎる貨物列車を見上げる僕。短い貨物列車。もちろん、そんなことは脳内の記憶には残っていません。調べればすぐにわかること。そのとき、僕が見ていた機関車はDD16のはず。本線運用があるためにタブレットキャッチャーを装備したDD16。そのときに聞いた二軸貨車が拾うジョイントの音、警報機の音、機関車が残していくディーゼルスメル、そういったものが脳髄に刻まれているとしか思えない。これといった決定的な思い出もなく、ある日突然、ガンダムとかに目もくれずコロタン文庫とかケイブンシャ文庫の鉄道物のほとんどすべてを読破するような子どもになるハズはないので。どこかでスイッチが入ったというものではないことはわかる。たぶん、ルーツはこれ。じわじわと来てたんだと思います。
日本最南端の駅が近くにあるところで育った僕にとって、列車で「遠くへ遠くへ」行くということは「北へ北へ」行くことと意味が同じ。日本最北端の駅が稚内駅であることは誰もが同じ認識。これは事実、現在においてはそうなのだから間違ってはいない。しかし、かつてはさらにその北に線路があったということであれば、そこに僕が行きたがるのは当然の帰結。
列車で「遠くへ遠くへ」行く、その最終到達地が目の前にある。ここでは帰れない。そんなヤツが「アタマお花畑で行くんじゃねエ」と知らないオッサンと旅行会社の人に言われてる場面。そこで出た言葉が、冒頭のアレです。
「かつて日本の鉄道政策が及んだ北限の地を、この目で見てみたい。ポロナイスク駅ではなく、現在の敷香駅を目指している」と、伝えました。
ロマンスグレーのその男性は静かに、感じてくれたはずです。
「こいつ、ぶっ飛んでやがる」
【続く】


