
僕は、ゴルフも釣りもやったことがありません。パチンコとスロットはそれぞれ1回ずつ、知人に連れられてやったことがあります。何が面白いのかわからなかった。20代の頃、職場のオヤジに「ゴルフも釣りも、パチンコもやんないで生きてて面白いのか?」と言われたことがあります。まあ20代ですからね、オヤジにそう言われても黙ってたんですけど、いま同じことを言われたら、こう言いますね。
「世の中にゴルフと釣りとパチンコしか楽しみがないと思っているオマエこそ、生きてて面白いのか?」
20代の時には、こういうこともありました。オマエもゴルフ始めろ、と誘われたので、
「今から始めてプロになれますかね。そこまで極められないなら、やっても無駄なんで、やりません」
そんなメンドクセエこと言うなら誘わん、と言うことで、二度と誘われなくなりました。ヨッシャ!
接待ゴルフとか、そんなことやらないとしのげない仕事とか職場だったら、辞めるわ。そっちのほうがはるかに「メンドクセエ」
暇つぶしに時間をかけるほど、僕の人生は長くありません。ただ、ゴルフとか釣りとか、そういう趣味世界を否定しているのではありません。以前の職場にこんな人がいました。釣りが好きで好きで堪らないんだけど、釣りに出かけようとすると奥さんの機嫌が悪くなるということで、仕方がないから休みの日は自分の家で釣りで使うベストを着用して過ごすそうです。そうすると気持ちが落ち着くとか。こういう自分の趣味に対して変態級の人は大好きです。ゴルフだって「俺はゴルフに行けないときは、ずっとゴルフボールを手の中でモミモミしてるんだ。そうしないと口から泡吹くんだよね」って言う人が居たら、愛せます。ずっとゴルフクラブを振り回してないと白目剥いて倒れちゃうんだ、という人には、こう言うでしょう。
「凶器を振り回すのはやめてください。みんな迷惑してますから、病院行ってください」
そんな僕が、今日、生まれて初めて「釣り竿」を操作しましたよ!これは記念日です。何を釣ったか、訊いてくれませんか?
布団の敷きパッド。
今朝。パートに出かける前の嫁さんが「休みの日ぐらい、自分で布団干せや」と言うんです。暇そうに見えたのかもしれないけど、暇ではない。模型パーツの塗装を終えて、乾燥待ちでちょっと息抜きしていただけなんですけどね。
それで、自分が使っている敷布団をベランダに干そうとしたら、敷きパッドがヒラヒラと宙を舞ったんですよ。僕が住んでいるのは5階。地上まで取りに降りるのはメンドクサイなあ、と思って視線を地面に走らせるも、見当たらない。なんと、1つ下の4階のベランダの手すりに引っかかってるんですね。
すぐ4階に降りて、ピンポン押しました。ちょうど真下の住居の。どんな人が住んでるのか知らないけど、そんなこと言っていられないですからね。でも、留守で、誰も出てこない。「5階の者ですけど、ウチの敷きパッドがご迷惑をおかけしております」って紙切れをドアポストに入れとこうかと思ったけど、生活臭があまりないんですよ、その部屋。あまり帰って来ない人なのかもしれない。
「自分でやったんだから、帰ってくるまでに何とかしておけよ、ボケが」と、嫁さんは言い放ってパートに行きました。僕もすぐ歯医者に行かなければならなかった。歯医者で口の中をグリグリやられながら、ずっと考えてました。1フロア下と言っても、結構な高さ(距離)がある。物干し竿を伸ばしたところで届かない。長い棒を調達するにしても車に載らない。だったら棒じゃなくもっとコンパクトなもの(高枝切りばさみみたいにグイーンとなる伸縮性があるもの)で突いて下に落とすことはできんやろか、でもコンベックスじゃダメだろうしな、と考えあぐねていたら、閃いたのですよ。「ダイソーで釣り竿売ってたな!」
歯医者から徒歩でダイソー直行。ダイソーと言えども、釣り竿が何種類かある。同じに見えるのにナントカタイプとか書かれていて、なんか違うらしい。敷きパッド釣るだけなんで、意味わからないタイプとかどうでもいいんですけど、と思いながらも1000円の釣り竿をご購入。
作業時間2分。我ながら見事な仕事でした。普段は自分から滅多にお父さんに話しかけてこないお姉ちゃんもベランダに出てきて「凄い!」って歓声あげてました。いいじゃないか、平和な親子だ。釣り針に魚が引っかかるってこんな感じなのかな。うーん、クセになりそうだ。
帰ってきた嫁さんに言われました。「それさ、遠くから見たら下着泥棒みたいに見えてたんじゃないの?」
昭和の植田まさしの4コマ漫画じゃあるまいし、釣り竿でパンティ狙うなんて、ベタキャラすぎるだろ。かりあげクンかよ。
本土最南端で育った僕にとって、列車で遠くへ行くということは、北へ向かうという意味でした。そんな20歳の自分が、稚内より先の北の駅を目指して出かけた話でしたよね。
ユジノサハリンスク市内のとあるオフィスビルの一室で、現地に住む日本人と現地旅行会社の女性に「ポロナイスクは危ないから行くのは諦めろ」と諭されている場面。僕は、ただやんちゃな発想でここまで来ているわけではない。そこだけは伝えておかないと、この人たちにこの先「前にも何も考えてない日本の若いヤツが来たんだよ」みたいな扱われ方をされてしまう。それは嫌だったので、ここまで来た理由を伝えました。
ロマンスグレーの男性は、僕の話を黙って聞いてくれました。そして、言いました。
「よくわかりました。私は旅行会社の人に行くのをやめさせるようお願いされていたんだけど、立場を変えますよ。これから、この人(旅行会社の娘さん)を逆に説得しますけど。いいですか?今夜の列車のチケットを渡すようお願いします。あとはあなたの自己の責任で。だけど、この方に迷惑をかけるようなことがあってはいけません」
ユジノサハリンスク発ノグリキ行き603列車の発車は23時前。夜遅いにもかかわらず、列車の周りには人が溢れていました。日本が敷いた線路を走る列車。乗客は日本人からロシア人に変わったけど、今も、しっかりと交通機関として機能していることに驚きました。昼間、僕を引き留めようとしていた旅行会社の娘さんが見送りにきてくれました。よほど心配だったのか、外国人旅行者の動静を気にしなければならない立場としての、つまりは「業務」なのか真相はわからなかったけれども、僕のためにこんな夜遅くまで付き合わせてしまったことに申し訳ない気分になりました。
ロシアの鉄道車両の形式はわからないのだけれど、寝台車は4人1室のコンパートメント。シベリア鉄道のそれと変わらないような車両でした。サハリン島内の鉄道は狭軌ですが、本土と鉄道連絡船で結ばれており、広軌の台車と狭軌の台車を履き替えることで車両の互換性を確保しています。サハリンでは広軌規格の貨車が狭軌の台車を履いて走っているので、旅客車が広軌仕様であってもおかしくない。牽引するのは、東側テイスト炸裂した姿の箱型ディーゼル機関車。北朝鮮でも走ってるヤツじゃないのかな。
よく眠れませんでした。ポロナイスク着は4時台。ユジノサハリンスクで「寝過ごしだけは絶対に気を付けること」と言われていたので、そこは守った。
キンキンに冷えたポロナイスク駅に降り立った瞬間のことは覚えていません。ただ、日本のように広告類があるわけでもない無機質な駅から、あっという間に降り立った人々の姿は消えて、ひとりになったことは覚えています。列車の本数が少ないから、列車に乗るために待っている人たちもいない。本当に、自分ひとりになりました。
かつて、敷香郡敷香町とされていた町です。ユジノサハリンスクでもう一つ厳命されていたことがありました。「駅からは一歩も出るな」ということ。それを約束することで、列車の切符を受け取りました。
ごめんなさい。それは守れません。明るくなるのを待って、町に出ました。明るくなったのに、人の姿が全くない。2月のポロナイスク。朝日に照らされた町は気嵐に包まれていて、目がチカチカするくらいの真っ白さ。駅から離れてどんどん歩く。人の住み家はすぐに無くなり、原野なのかなんなのかわからない白一面の景色。ところどころで写真を撮っていたら、コンタックスに詰めていたフイルムが千切れました。寒いという感じはなく、凍える感じ。コートの下に忍ばせていたカメラの金属ボディがめちゃくちゃ冷たい。
日本時代、真に日本最北端の駅は敷香からまだ先の古屯という駅。同じ敷香町内です。日ソ国境である北緯50度線から10数キロに位置する駅でした。そこまで到達できなかったことは悔いでもなんでもなかった。どうでもいい。ポロナイスクの駅から半径数キロしか歩いていないけれど、それで僕の気持ちは十分でした。もう来ることはないかもしれない、そう思いながら、歩き続けました。
終戦記念日とされている1945年8月15日を過ぎても戦闘に包まれていたであろう町の景色。でも、僕が歩いたその景色は、音もなく静かでした。日本が「負け」を認め、日米が停戦を要求したにもかかわらず無視して、50度線を越えて攻撃を続けていたソ連軍。その歴史を知って以降、「ソ連はキタネエ」と思っていたけれど、歩いている間、そんな感情はありませんでした。「人が暮らしている」という圧倒的リアルに、そんな個人感情がかなうはずがない。
とにかく列車の本数が少ない。ユジノサハリンスクに戻る列車は昼過ぎでした。駅に戻っても時間の潰しようがない、でも行くところもないので駅に戻りました。しばらくひとりぼっちで居たところ、30代くらいの白人男性が駅に入ってきました。2人、距離を置いて座ったり立ったりしていたのだけど、その男性も暇だったのか、話しかけてきました。ロシア語にカタコトの英語を交えて話してくる。お互いが中学英語レベルになるかならないかの会話。「アメリカ人は大嫌いだけど、日本人は好きなんだ」と笑っていました。
男性はポロナイスクから近い町に仕事の現場があり、これからユジノサハリンスクに帰るところだと言っていました。昼のユジノサハリンスク行きの列車に彼女が乗っていて、列車で合流するのだと。
「まだ列車の時間までかなりある。日本語が話せる家族が住んでいる家を知っているから、行ってみないか」
と言うのです。この土地で日本語が話せる人たち。胸の中がきゅっと絞まりました。

先ほどひとりで歩いた道を2人で歩きます。着いたのは3階建てほどの集合住宅でした。男性がそのなかのドアの一つをノックする。ドアが開くと、先に男性が入り、何やら説明をしている声が聞こえます。相手は「日本語が話せる家族」
手招きされたので、中に入りました。おじいさんとおばあさんが立っていました。以前、韓国釜山駅前で「夜は駅に近づくな」と僕に教えてくれたおじいさんが居ましたが、そのおじいさんと似た風貌。
「日本人!」
おじいさんが声をあげました。胸がチクッとしたけれど、おじいさんは「外では寒いから早く中に入ってください」と。
促されて茶の間で腰をおろすと、おじいさんはこう言いました。
「私の日本語、わかりますか?日本語を話すのは何十年ぶりだかわからないので、間違っていたらごめんなさい」
ちょっと早めのお昼ごはんだったようで、そういった意味でも申し訳ない気持ちになりました。
「ちょうど豆腐を食べていました。豆腐、日本の食べ物でしょう?」
豆腐のほかにもごちそうになりました。僕も緊張していたのかな、何を口にしたか覚えていません。食卓には、お孫さんも同席していました。僕やおじいさんたちと同じ、東洋人の肌。僕より一つ下の娘さんでした。見た目は僕たちと同じなんだけど、そのお孫さんは自己紹介で「ラダです」と自分の名前を教えてくれました。日本語で。不思議に思っていたら、それが顔に出ていたのか「日本語を勉強しています」とのこと。だけど、それ以上の日本語は厳しいみたい。おじいさんとおばあさんが、ラダが口にするロシア語を訳してくれて、それで厳しいところは、駅から僕をここに連れてきた男性のカタコトの英語が混じるという会話。
やはり緊張していたのかな。その時の会話はほとんど覚えていません。ただ、楽しいひと時だったことは、覚えています。
見送りのため、ラダが駅までついてきてくれました。駅にはプラットホームなんてないから、線路に面した駅舎の軒下で、列車が入ってくるのを待ちました。ベンチに座っているラダに写真を撮ってもいいか訊きました。恥ずかしいからダメだって。お互いに共通する言語がないから、会話が少ない。ほとんど黙って、二人でベンチに座っていました。
ディーゼル機関車に牽引された列車が入ってきました。座席車による編成。日本製の客車です。ウインドシルヘッダーを省略したスロ51のような客車。車体色こそ東側系の緑色ですが、日本人の目にすっと入る風貌をしていました。地面から直接、ステップをよじ登って乗り込む。ラダはそこまで来てくれました。もう会えないって思っているから、僕はデッキの上から、もう一度「写真を1枚だけ」とコンタックスを指さして言いました。でも、ダメだって。
日本に戻って、手紙を書くと返事がきました。ロシア語の本文の最後に、ローマ字で書かれた拙い日本語の言葉が数行ありました。頼まれたわけでもないけれど、神保町の三省堂書店で買った露和辞典を送りました。
だけど、その手紙の返事は来ませんでした。ロシアの郵便事情は日本ほどではないと思います。
届かなかったのかもしれない。【了】




